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TOLEDOの部屋

TOLEDOの部屋

二兎を追う者

二兎を追う者たち
             竹津 昇
 
一、 曾祖父と祖父

 曾祖父の竹津二郎は新潟で生まれた。明治三年のことである。その後、二郎は北海道狩太(ニセコ)に渡り、小作農になった。その後、土地を求め豊浦町大和(やまと)に入植した。曾祖父は、さらに恵庭に昭和二十五年に移住し、昭和三十五年に九十歳で没した。
ひげを生やした姿を今でも覚えている。
 祖父は「定吉」(さだきち)という。明治三十五年生まれで、九十八歳で亡くなった。
小柄で口数が少なかったが、多くの人から尊敬されていた。大工の腕がすごくて、自宅はもちろん、多くの家屋を建てていた。誰かに弟子入りしたのでなく、書物など独学で技術を身につけた。損得勘定で動くのでなく、義理人情の厚い人柄であった。祖父の定吉は、農家と大工、二兎を追う者だった。

二、 父のこと

鏡で自分の顔を見ると、右の前側の髪の毛が白い。父の特徴がそのまま遺伝している。
 父の名前は、「喜重」(きじゅう)という。今から三年前の三月三日に父は敗血症で亡くなった。八十六歳だった。
 父は、昭和四年九月二十八日豊浦町大和で生まれた。墓を移設するのに、昭和四十年頃父の生まれた場所に訪れたことがある。大和の学校のある地点よりさらに山奥にあり、住んでいた場所の横に三角点があるほどのところだった。気候がよく作物はよくできるのだけど、極端な傾斜地であったために、収穫前の作物は秋の雨で谷底に流された。
父は、九人兄弟の次男であったが、長男が生後間もなく死亡したので長男同様に育てられた。戦争の時代だから、兵隊に憧れ、志願したかったのだが、祖父から許しが得られなかった。小学校高等科を卒業して家業を継ぐことになった。
戦後、昭和二十五年に恵庭に移住した。平地の稲作を目指してのことである。昭和三十年に母と結婚した。三十二年に姉が生まれ、三十三年に私、三十五年に妹が生まれた。
 父といえば、「機械好き」ということが思い浮かぶ。九番目の叔父が苫小牧工業高校の電気科だったので、遅くまで父とラジオを組み立てていた。小学校に行く以前は、馬を飼い、田畑を耕作していたが、ほどなくして青いフォードトラクターで田んぼを起こす姿をみるようになった。父は、昭和三十七年に自動車の免許を取得している。このとき、自動二輪、大型特殊、けん引免許なども取得している。
 恵庭美術協会の展示を見に行ったとき、元農協職員だった人に声をかけられたことがある。農業機械の整備をしていたそうだが、私の父に整備を教わったそうだ。
 また、農業機械の開発にも熱心だった。昭和四十二年ごろには、田植え機械を試作していた。世の中に「田植え機」という言葉さえもなかった時代である。また、発明家と組んで、「スレッシャー」という脱穀機をテストしていた。これは、結束していない稲さえも脱穀してしまうすごい機械だったが、「コンバイン」という稲刈りと脱穀を同時にしてしまう機械の登場で世の中へ出ることはかなわなかった。
 ある日、脱穀機を回すモーターが壊れたことがあった。すぐには直らないので、ディーゼルエンジンで回したことがあった。しかし、排気ガスがひどくて、みな頭が痛くなりすぐに撤去となった。ディーゼルエンジンなどすぐ使うあたり、子ども心にも父はただ者ではなかった。
 土地は十ヘクタールあり、稲作農家としては大きい方であった。昭和四十四年は、大豊作だった。その年の秋、初めて登別温泉の第一滝本館に連れて行ってもらった。
 しかし、豊作が続いたことと国民の米離れ
もあり、昭和四十五年には、政府の減反政策が始まった。農家に米を作らない耕作地を割り当て、補助金を出して、米の生産量を制限しようとする政策である。
 そのとき、子どもは五人。何とか農業以外で収入を得る必要があった。父は、昭和四十七年に大型二種(大型バス)免許をとり、その年に自動車学校の技能指導員の資格を取った。大型二種の試験は、難関で四十人受けて合格者は二人だったそうだ。
 私が、中学一年、昭和四十七年から父は恵庭自動車学校で技能教習を担当するようになった。朝早く、田を耕し、昼間自動車学校で勤務し、夕方トラクターに乗っている父の姿をみていた。父もまた、自動車と農業の二兎を追う者となっていた。父は、原付以外のすべての自動車免許と農業機械の整備士、ガスと電気の溶接、危険物など多くの資格を持っていた。
 小学三年生のときに寺館国治教頭先生が赴任した。寺館教頭先生は、絵描きさんでもあった。吃音症であった自分は、勉強が得意ではなかったが、寺館先生はいつも絵をほめてくれた。それがうれしくて毎日のように絵を描いていた。描くものは、馬小屋や牛舎、自宅などだった。今でも、建物や壁を描くのは、そのころからの習慣である。父や母が働く姿を見ながら、絵を描くのは、最高に落ち着く時間である。
 父も母も遅くまで働いた。家事は姉がやってくれていた。姉の中学の数学の宿題を、小学五年から担当した。小学五年から中学の数学を三年間解いた。はじめは、間違ってばかりで、姉にずいぶん怒られた。それから、真剣に教科書をみて解いたから、ほとんど間違わなくなった。中学一年のときは、数学が簡単すぎた。そのころ、中学三年の二次方程式を解いていた。今でも、姉は
「お前が数学できるようになったのは、私のおかげだ。」
と言われている。だけど、姉の数学の成績は
最低となった。
 父に贈られた三つのものを覚えている。ひとつめは、「地球のひみつ」という理科の本だった。地球のこと、宇宙のこと、恐竜のこと、地球がまるいと証明しようとした冒険家のことが書いてあった。何度も何度も暗記するほど読んだので、理科が好きになった。大学一年にバイクを買ってもらった。同時に京都ツールの工具一式も買ってもらった。おかげで、パンク修理はもちろんチェーンやキャブレター調整など基本的な整備は、自分でできるようになった。また、大学四年の夏休みに自動二輪中型と大型自動車の免許を同時にとった。教官は、父だった。

三、 自分のこと

 高校二年のときに、初めて大学進学を父に話した。農業科でなく工学か理科を希望していた。減反政策もあり、農業の将来が見えなかった。積極的な動機は、化学分野で農業肥料や農薬を開発したかった。農家のためになりたかった。それを父に言わないでいた。父は、最初は反対したが、最後は容認してくれた。ただし、条件をつけられた。国立大学で現役ということだった。
 もともと大学進学を想定していなかったので地元の恵庭北高校に通っていた。成績は、いい方だったが、国立大学など受けたこともない高校である。北大の理工学部を受験したが落ちてしまった。当然である。高校は、数Ⅱや数Ⅲは教えてくれなかった。理工学部に必須なこれらの教科は独学だった。滑り止めで受けた北海道教育大学釧路校の数学科に入った。教育大学合格後、現役合格を条件にしていた父だが、北大なら一浪してもいいと言ってくれた。父も内心は、自分も機械に進みかったに違いない。それを家族のことを考え家業の農業をついだのだろう。今になって、父の気持ちがわかってきた。だけど、自分は、一歩前に進みたくてそのまま教育大学に進学した。
 大学では、サッカー部に入った。ここで、運命の出会いがあった。小林という英語科の学生と絵の話をするようになった。やがて、いっしょに絵を描き、展覧会をするようになった。大学四年のときは、数学科の分際で本気で絵描きになろうと思った。それで、生活するために小学校教員として勤めようと思った。東京に近い神奈川県と千葉県、北海道の三つの教員採用試験を受けた。三つとも合格したが、神奈川県と千葉県は父が許さなかった。それで、北海道千歳市中央小学校に赴任した。実家の恵庭市中央から九キロしか離れていなかった。
 千歳中央小学校は四年間勤務した。そのとき、恵庭の「えのぐ箱」という油絵のサークルに入った。
この頃、母が自動車の免許を取得した。技能試験は、父のきびしい指導のおかげ何とか合格することができた。問題は、学科試験である。母は、戦時中に小学校時代を過ごしたので、勤労動員や家の手伝いで、読み書きが苦手であった。父は、すぐに怒ってしまうので、あまり父には聞けないでいた。うちに帰っていた私が、母に学科を教えることになった。私は、五十歳になる母の挑戦を感心してみていた。母の話だと、やさしく丁寧に粘り強く教えてくれたそうだ。母の努力が実って、実技試験後二か月ほど時間を空けたが、一発合格となった。母の喜ぶ顔が何よりうれしかった。
過員になり、石狩若葉小学校に転勤となった。ここで、サッカー少年団を担当するようになった。花川イレブンという強いチームであった。三年生を受け持ったが、一年間で一回しか負けなかった。おかげで、土日がなくなり絵を描く時間がなくなった。ここで、結婚した。サッカー少年団の監督で忙しかったのに妻には、「俺は絵描きだから腹いっぱい絵を描かしてくれ。」と言った。絵を描く時間がないなかでも何とか絵を続けるために水彩に転向した。そこで、水彩連盟と道展の会員であった森木偉雄先生と出会った。
 森木先生は、自分の絵を見てくれたが、具体的な指示をする先生ではなかった。絵は自分で描くものだと気づいていたが、具体的に指導者はどうあるべきかわからないでいた。森木先生のご指導がその後の自分の指導方法にずいぶんとためになった。
 六年後、江別の大麻東小学校に転勤した。
サッカー少年団はあったが、声はかからなかった。ここで、中学校美術一級の免許を取得した。不登校が全国的に多くなった時代、私も多くの不登校の子どもを受け持つようになった。ここで、教育臨床カウンセラーの資格をとった。この学校で、道展に入選するようになった。教科書に載せる図工教材をたくさん開発した。
 さらに六年後、厚田村の聚富小中学校に赴任した。小学校に四年、中学校に七年勤務した。最初は、生徒が荒れていたが、徐々に改善していった。ここで、スペインにスケッチ旅行するようになった。アルコスという南部の町の馬小屋に出会ったのである。西日に照らされた漆喰の白壁を描いていた。馬小屋の饐えた飼い葉の臭いがたまらなく懐かしかった。やがて、荒らされ壊されるまで十年間六回訪れた。その馬小屋の絵が、水彩連盟と道展で受賞した。十五年も出品して、ほとんど鳴かず飛ばずだった。受賞の知らせを聞いて飛び上がって喜んだ。中学校では、美術と技術を担当した。専門でもない者が教えるのでは、申し訳ないと思い、中学校技術二種の免許を取った。
 希望して東千歳中学校に転勤した。理科と美術、技術、体育を担当した。文化部という部があったが、部員はいなかった。新しく一年生を三人勧誘した。活動は、美術部である。
外に絵を描きに行ったり、取材して歩いた。
一年目は、馬の絵展に一人入選のみだった。
二年目は、三人入賞・入選した。三年目は、九人、四年目は十三人、五年目二十二人で、この年に全国展で最高賞を得ることができた。その後も、二十人から六十人の入賞を続け、十三年間で延べ三百人ほどの生徒が入賞・入選している。そのうち、六回全国展で最高賞をいただいた。
 よく、なぜ小さな学校から多くの入賞者を出しているのかをきかれる。国館先生に教わったように「生徒の絵の良さをほめる」こと、森木先生のように「自分で描く」気持ちを持たせることだ。また、自分だけの絵を描いてもらうように、画材の提案をした。
 画材の種類は、他の学校にはかなわないはずだ。透明水彩、不透明水彩、アクリル絵の具、アルキド絵の具など絵の具の種類は、実に多い。支持体も水彩紙、色紙、段ボール、漆喰、セメントまで使用する。金箔やボルト、金属廃材などなんでも使う。これは、小規模学校だからできることだ。それを生徒同士、かぶらないように選択してもらうので、全員違う作品ができる。こうすれば、仲間同士の潰し合いがなくなる。水彩に限らず、東千歳の生徒は、何でも真面目に真剣に取り組む。
東千歳のすごさは、この点が最も大事なことだと思う。
 数学教師が転勤して、私が本来の数学を担当することになった。一年生の生徒に
「先生。数学、大丈夫ですか。」
と聞かれた。私は、
「まあ。自信ないけど、助けてくれや。」
と答えた。二年生になり、その生徒は、赤点を取ってしまった。私は、
「いやあ。悪かったなあ。先生の教え方が悪かったから、赤点取らしちゃったなあ。」
と言った。その生徒は、
「僕が、甘かったです。先生のせいではありません。」
と答えてくれた。それから、現在まで私は数学と美術の先生という位置づけでいる。私もまた、数学と美術の二兎を追う者となった。
 スペインの馬小屋が壊され、中を取材するようになった。よく考えたら、生徒の牛小屋や納屋を取材するうち、スペインに足を運ぶ必要がなくなった。そういうわけで、ほぼ生徒の納屋を描くようになった。その作品が水彩連盟と道展で連続受賞するようになった。
一時は夢の夢だった会員になることができた。
 道展と全国展の水彩連盟の会員なら「絵描き」ということになる。これで、私も教師と絵描きの二兎を追う者となった。
 あとで聞いた話だが、転勤の時期の六年目のときに、保護者が教育長へ竹津先生を残してと直談判に行ってくれたそうだ。これは、教師冥利につきるというものだ。言葉が、素敵すぎる。
「竹津先生が望むなら、竹津先生を東千歳に残してほしい。」
私は、こんな素敵な夢の学校を去ろうという気など起きたりはしない。退職まで十一年勤務した。現在、再任用の二年目である。
 東千歳に赴任してからロシアのノボシビルスク市との文化交流を経験した。はじめは、
三人の絵画展がきっかけだったが、講習会が評判になり、その後三回ほど交流が続いている。これらは、東千歳中学校の美術教育がベースとなっている。
私を紹介してくれる通訳さんがずいぶん盛って紹介している節がある。竹津氏は、
「美術家として著名だが、数学家としても有名だ。とくに、勤務している中学校の生徒の絵のレベルは全国トップレベルである。」
中学校の生徒のくだりは、ある意味当たっているが、私に関する前半の部分は盛り過ぎである。ただの、数学と美術の教師である。だけど、こういう特質を持っている私という存在は、ある意味、意味不明で謎である。
 物おじしないロシア人でも、私にサインを頼むときに手が震えているのだ。通訳の人に
「あんまり大げさに紹介しないでください。」
と頼んであるのだけど、その後さらに盛られたように感じている。
 令和二年の今年は、新型コロナウイルス感染症の流行でほぼすべての展示と国際交流がなくなった。ノボシビルスクの北海道シベリアセンターの協力を得て、ロシアの昔話を絵本にしようと思う。生徒バージョンと私の絵バージョンの両方を作ってみようと思う。

四、 長女と長男

 私には、二人の子どもがいる。長女は、東京でデザイナーをやっている。札幌高専を卒業し武蔵野美術大学空間演出デザイン科を卒業した。CMや店舗デザインを担当している。
建築科の関係だから建築士の免許でも取ればよいと思うのだが、本人はデザイン以外興味がない。高専の受験のとき、塾の先生がパレットをみて、父親に習うよう勧められて私が水彩を教えた。
 長男は、北大工学部を出て、札幌市の土木課水道局に勤務している。数学馬鹿で、医学部志望生に数学を教えていた。高校の時に数学の問題について質問されたが、さっぱりわからなかった。それで、
「問題をよく読め。」
と言った。息子はにやついていた。大学生になり、塾の講師になった。長男に、
「どんなことを言ってるんだ。」
と聞いたら、
「親父と同じだよ。『問題をよく読め』だ。」
 息子は、私や娘と違って、恐ろしいほど絵が描けない。娘も息子も「二兎を追う者」にはならないようだ。
 正直、私は子どもがうらやましい。長女は絵で飯を食っているし、長男は憧れの北大を出て、橋梁の設計を勉強し、工学の専門職についている。

五、 TAKE2と水彩の筆

私は、自分の持ち物にTAKE2と書くことが多
い。名前からして「二兎を追う者」であった。
何しろ、TAKE2である。二つ取る者である。
 あの熱心な仕事ぶりから祖父も父も、大工や機械技術者になりたかったに違いない。私も、本心は絵描きになりたかった。新潟から家出してきた曾祖父二郎も二兎を追う者だったかもしれない。
時代や社会情勢から、生きていくためにやむなく「二兎を追う者」となったのである。馬小屋の飼い葉の臭い。「いものなます」(注1)という簡素だけどおいしい竹津家の料理は、祖先の苦労と感謝を思い出す。
 息子や娘が「二兎を追う者」にならなかったのは、むしろ良かったことである。
 「竹津」という苗字だけど、よくできていると感心したことがある。「シ」(さんずい)に「筆」と読むことができる。「水彩の筆」となる。
 道展に九回連続して入選し、三回連続落選したことがある。原因はネット囲碁のやりすぎであった。自分の名前が「水彩の筆」と気づいたとき、囲碁をきっぱりやめることができた。
人生は、長い。うまくいけば、あと二十年ほどは好きな絵を描いていられるかもしれない。今度は、「一兎を追う者」として、一途に絵が描けるかもしれない。

(注1)「いものなます」
ジャガイモをいちょう切りに切り、水煮をする。半生状態であげ、お湯を切る。鍋に油を注ぎ、半生のジャガイモを炒める。鰹節と醤油をかける。最後に、火をとめ、酢をかけ、味を調整する。豊浦で育った竹津家独特の料理である。


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